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2006年8月31日 (木)

何でも肯定するのが歴史ではない

 歴史を語るとき、自国の歴史は、他国の歴史と同じ時間を経過していると考えなければいけないと私は思う。
昔、学校で習った時、日本史と世界史が、私の中で一緒に、同軸として捉えられなかった覚えが在ります。
それは無理も無いのかもしれません。世界史の範囲は、オーストリアの歴史であったり、飛んでイギリスの歴史に成ったり、アチャコ茶なのです。今思えば同軸では在るけれど、当時生徒であった私には考えが及ばなかった。
いつも、自国の歴史と重ね合はせれば、少しはわかりやすいのではないでしょうか。世界史の授業で、日本が調度鎌倉幕府の頃、世界ではこうだった、みたいな話しです。およそ世界史は大まかなのは仕方在りません。そんな世界中の歴史を、細かく教わることは無理でしょう。では自国、日本なら日本です。その日本史のの教育の中で、日本がその時世界に何をしたか、今や国際的な社会の中で、グローバルですか、皆さん仰いますね。グローバリゼーションとか。国際競争とか、国際協力だとか。
 では私は言いたい。自国の歴史、それは他国の歴史と重なっているはずだと。侵略したら、侵略された国の歴史が在るはずです。それは同時進行なのです。今さかんと云われている、若者の純粋な気持ちと犠牲の上に、今の日本が在るとするならば、自国を占領された人びとの、悔しさの上に、それも必要な体験として貴方の今の国は在るのですよと、云えますか。
 アメリカの爆撃で無くなった人達は、何なのですか。あなた達が、爆弾と焼夷弾で亡くなったからこそ、今の日本が在るなんて、何処の、誰が、云えるんですか。原爆を落とされ、塗炭の苦しみを、今まで背負って生き来た方たちに、あなた達のお陰で今の日本が在るなんて云った政府の人いますか。原爆症も認めない政府ですよ。裁判で負けても、更に控訴する政府ですよ。私はそこに真心を認めない。
 私は、死ななくてもよかった人びとだと思う。死ななくてもよかった人々の心の葛藤と悔しさは私にもよく解かる。自国の歴史に本当に向き合うのなら、自国の歴史を、肯定してばかりしていてはいけない。不必要に否定する事も無い。世界の歴史の一部として捉えるべきです。そうすれば日本史と世界史が一体として捉えられる。
 私は情けない人間だから、国家に死ねと云われても、死ねない。死なない。死の賛歌等おかしい。

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