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2006年9月22日 (金)

強制した愛国心のその後の教訓

 過去を見つめられない人は、将来も見通せない。
 一人一人の国民が納得しているかも、解からない。

 強制によって日の丸を掲げさして、何の意味が在るのでしょう。
 無理やり君が代を歌わせて、何の意味が在るのでしょう。
 それも教育の場で。

 在る人は「秩序を乱す行為は許されない」。
 学校は秩序を乱さないことが第一番だとする意見です。
 一色でなく、色々の価値観を育てていくのが人格の形成ではないでしょうか。
 そこに、限りない可能性が秘められていると私は思います。
 皆同じ方を向いている事の方が、余程気持ちが悪い。

 その場で歌いたい人も、歌いたくない人も、皆大人に成っていきます。
 その間に色々考え、大人としての自己の確立も進むと思います。

 こどもたちに、時間を上げて下さい。考える。
 そこから、自分はどう考えるかをしっかりと見極めると思います。
 そこに自然に成長した大人としての判断が出来るようにしてあげるのが教育です。

 こども達は上から押付けられた教育を受けています。
 家庭教育でも、親の押し付けをしてきた家庭程、いじけたこどもが育つことは明らかでしょう。

 戦前のこどもより、現代のこどもの方が、まだ自分の意見をいいます。
 それもお仕着せの言葉ではなく。女のこも、男のこも。

 これは云ってはいけない等と、こどもが考えなきゃ成らない時代は異常です。
 多くの国民は利口ですから、表向きは逆らわない人多いと思います。
 だから国家は安泰に成るのですか。それが目的なのですか。   

 私は日の丸の国旗何か、絶対掲揚しません。こんな事に罰則が付いたとしても。

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