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2006年11月 7日 (火)

日本の近代史の真実を問う 何故事変だったか

 日中戦争は何故、支那事変と云われたか。
当時はまだ国際戦争における法律は整っていませんでしたが、捕虜の扱いとかは、決められていました。
戦争の場合は、当然捕虜がでますから、その捕虜に対する決まりが在りました。ところが、戦争でなくて、事変の場合はその扱いが決まっていませんでした。

 日本はそこに付け込みました。日中戦争は、事変だと主張することによって、捕虜の扱いから逃れたのです。
又、更に、日本はアメリカから鉄や石油等を輸入して戦争をしていました。これが事変ではなくなると、戦争と云うことになり、アメリカの支援が停止されてしまう事態になってしまいます。

 そこであくまでも、戦争ではなく、事変と云う言葉に成ったのです。
日本が日露戦争をした時は、捕虜収容しせつを作り、比較的ゆるやかに捕虜を扱いました。
日中戦争ではどうでしょう。あの広い国土に対する全面戦争だったのに、捕虜収容所は一つも在りません。
何故か。捕虜を作ってはいけない事変だったからです。戦争の規則に最初から縛られない戦争だったのです。
国際的決まりを無視した戦争、事変に仕立てたのです。

 南京に入った日本軍に抵抗する人びとは、当時の中国の首都ですよ、大勢いました。でも捕虜は出せません。どうするか。選択肢は二つ。逃がすか殺すか。
 歩兵第30旅団長佐々木到一中将の戦場記録「南京攻略記」の次の一説。「捕虜ぞくぞく投降し来たり、数千に達す。激昂せる兵士は上官の制止をきかばこそ、片端より殺戮する。白米はもはや一粒もなく、城内にはあるだろうが、捕虜に食わせるものの持ち合わせなんかわが軍にはないはずだった」
「敗残兵といえども、尚部落山間に潜伏して狙撃を続けるものがいた。従って抵抗するもの、従順の態度を失するものは、容赦なく即座に撃ち殺した」

 ここでは戦時国際法を念頭においている形跡はみられません。更に中将の日記は「我が支隊のみで2万以上の敵を殲滅した」。
他の将校の記録。「捕虜のしまつに困り、学校に収容せしところ14777名を得たり、斯く多くては殺すも生かすも困ったものなり」。(12月14日)。南京からの指示は「みな殺せとのことなり」。(12月15日)。

 南京攻略には十個師団が参加しています。これだけの捕虜を処理しているのです。全体では莫大な数に上るでしょう。

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