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2007年12月19日 (水)

私が見た蛮行。過ちもなく殺された。 生存者 伍正禧さん

 私の家はパンや麺を売る小商いをしていました。1937年の八月か九月ごろから、日本軍による空襲が南京でありました。祖父は難を逃れるため、私達一家を難民区に移しました。難民区でも商売をしながら生活をしましたが、メリケン粉や油などの原料は元の家に置いたままでした。
 12月13日の昼ごろだったと思います。三人の日本兵が難民区の私の家に来ました。二人は小銃を担ぎ、もう一人は左側に刀をさげていました。その左腕には「中嶋」という文字が書かれていました。
 私の家族は大家族でした。そのなかの五人の男を日本兵は連れ去っていきました。兄と叔父、三人のいとこでした。いまになっても五人がどうなったかわかりません。
 難民区の付近を五人の遺体があるのではないかと必死にさがしました。
 難民区と非難民区の境にため池があり、そこには中国人の死体がたくさん浮いていました。死体を動かそうとしましたが、動きませんでした。腕がひもで縛られ、五・六人がつながれていたのです。みんなうつ伏せになって浮いていまsぢた。その人たちの顔を上に向かせて一人ひとり確認しました。この中に自分の家族、親戚がみつかりませんようにと一生懸命祈りながら探しました。
 近くでみつからないので、私は遠くで殺されたのだろうと思いました。当時、死体収容の組織が出来たので、そこに入って死体収容の仕事をしました。
 その間、無数の死体を目にし、収容しました。村から難民区に逃げられなかった人たちは家の中で殺されていました。中国兵の死体もたくさんありました。女性の死体、こどもの死体を山ほど見ました。そして、それを収容しました。
 数日後、私と祖母が布団を干していた時です。日本兵が現れて祖母を捕まえ、中国語で「娘はいるか」とと怒鳴りました。祖母が震えたまま答えないのに怒って、日本刀を抜きました。祖母は日本刀を見てさらにおびえ、気を失いました。日本兵は祖母をけり、家に入りました。私は急いで祖母を抱き上げ玄関の外に逃げました。
 しばらくして、その日本兵が刀を下げたまま家から出てきました。私は祖母を連れて家の中に戻りました。奥の部屋に入った途端、私は大声を上げてしまいました。振り向くと、ひざまずくようにして歩いていた祖母が悲鳴を上げました。
 ベッドの周りが血の海になっていたのです。ベッドには祖父がいました。胸、足の付け根、太ももの三箇所を日本刀で刺されていました。祖父はその日のうちに息を引き取りました。
 祖父は当時、80歳代でした。祖父に何の過ちがあったというのでしょうか。なぜ一言も声を上げられずに殺されなければならないのでしょうか。祖父の思いや無念を、私の口を通じてみなさんに知っていただきたいのです。

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