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2008年1月29日 (火)

表紙の「少女」これは僕です。(朝日新聞人・脈・記より)

 一枚の写真が大田昌秀(82)の目をくぎ付けにした。
 おかっぱ頭の少女が血まみれで座りこみ、うつろな目をカメラに向けている。あの沖縄戦のなかを逃げまどったのだろう。
 大田は学生時代、鉄血勤皇隊として沖縄戦に動員され、大勢の友を失った。戦後、琉球大学で教壇に立ち、米国の公文書館などで沖縄戦の資料を集める。
 そこでみつけた写真を「うつろな目の少女」と名づけ、本の表紙に使った。琉球新報に書いた連載をまとめ、77年に出した記録写真集『これが沖縄戦だ』である。
 沖縄県与那原町でクリーニング店を営んでいた大城盛俊(75)は、この写真を84年に見る。内臓病で入院中、隣のベッドの患者が広げた地元紙にのっていた。
 その新聞をもらい、タクシーで新聞社に駆けつけ、大田の自宅を聞く。けげんな顔で玄関にあらわれた大田に紙面をつきつけた。 「これ僕です」「でもあんた、男じゃないか」
 大城は沖縄戦当時12歳。 「男の子は日本軍にひっぱり出され、何をされるかわからん」と案じた父のいいつけで、女の子のように髪を伸ばしていた。
 だが、なりすましてもムダだった。島がまるごと戦場になった45年6月、家族の食料を奪おうとした日本兵にとりすがる。 「生意気だ反抗するのか」。 ひそんでいた壕からひき出された。こっぴどく殴られ、けられ、気を失う。右腕は脱臼、右目は失明。右足にいまも障害が残る。
 大田が見つけた写真は、米軍につかまった大城が治療されている時に撮られたものだった。 「あんた、生きていたのか」。 大田は泣き出した。大城も涙する。ふたりはかたく抱合った。
 大城は沖縄戦の悲惨を語りつぐ「語り部」になった。全国の学校や平和団体を訪ね、1200回を越す。喉頭がんの手術をして22年前から人工発声器をつかう。低く聞きとりにくい声。生徒達は息をころして聴き入る。
 「日本軍は『お前ら、アメリカにつかまるとスパイになるんだろう』と住民に手投げ弾を渡した。壕から出るときも、子どもを先頭に立たせて盾にした。沖縄の住民の敵は日本軍だったんです。そういう戦争をしらない人が歴史の教科書を書いている。情けない」
 90年、大田は知事選に立つ。相手は保守現職の西銘順治。保革の対決だった。
 『これが沖縄戦だ』を出した那覇出版社は地元紙に大田の本の広告を打つ。書名よりずっと大きな字で大田の名前。二度目に「選挙応援だ」とクレームがついた。社長の多和田真重(69)は「恩返しのつもりでした。三度目は普通の広告にもどしましたが」。
 40万部のベストセラーになった『これが沖縄戦だ』の編集を担当したのは桑高英彦(63)。静岡出身で東京の出版社で美術書などを作っていた。たまたま読んだ大田の論文に胸を打たれる。手紙を書き、本土復帰翌年の73年、沖縄へ。大田の紹介で那覇出版社に入り、初仕事がこの本だった。
 太田知事が誕生して、桑高も県庁に入る。二期八年つとめた大田が98年の選挙に負けたあと、閑職に回された。01年、大田が参議院議員になると、その秘書になる。昨年大田の政界引退とともに那覇出版社にもどってきた。
 「大田さんのおかげで、予想もしなかった人生になりました」。ひさしぶりの古巣で何をするのか。「『沖縄戦辞典』と『大田昌秀全集』を出すこと。これをやりきれば、私が沖縄に来て34年の意味もあるかな」
 大田はいま沖縄戦史の決定版とするべく、本を書いている。東京から出せば広く読まれるだろう。だが、地元から出したいという気持ちもつよい。
 「鉄の暴風」といわれた米軍の猛攻に追われ、人々が命を絶った摩文仁の丘は鎮魂の地である。
 「そこで『これが沖縄戦だ』を売っているおばあさんがいるんですよ。そういう人たちの暮らしを応援できるというのは、本を出す者の冥利なんです」  (篠崎弘)

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