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2008年8月13日 (水)

これのどこが「亜細亜解放戦争」だったのか? 2

                       和田三郎(84)さんの回想
 「なんと無情なことか、彼らに土下座して誤っても足りない」
今年五月、地域の年金者組合などが発行した戦争体験の文集に、そのように記しています。
1941年1月に中国東北部の満州へ渡ってから、湖南省衝陽で終戦をむかえるまでの徴発行為を告白しています。和田さんは後方支援の防空隊として日本軍に従軍しました。補給は殆どなく、現地で食料を調達することは日常茶飯事でした。朝の点呼が済むと、兵隊四ー五人が一組となって徴発に出ました。
 朝、中国の農民たちは、白米をてんびんに担いで往来しました。町で現金に換えたり、市場で砂糖や塩と物々交換するためでした。「その途中を待ち伏せて分捕るわけだ。集団で襲う略奪だ」。使うのは機関砲や高射砲を載せる防空隊の自動車。道の脇に車を寄せ、運転手と助手は車内で、残りの兵士は荷台で待ち伏せしました。有無をいわせず、奪った米を荷台に載せ、走り去りました。「シーサン(先生)、シーサン」そういって農民達は後を追いましたが、その姿は見る見る小さくなりました。
 「日本軍に歯向かうことなんて出来ない。尋常な農民はただ『堪忍して欲しい』って表情してた」。遠くを見つめて離す和田さん。「一般市民は何の罪もない人たち。自分の生活のため、てんびん担いできただけのこと。それを略奪したんだもの・・・」 
 徴発は他にもありました。「野菜組」は格兵士が携帯する1,5四方の天幕をp持って畑に行きます。「イモ、葉っぱ、大根。口に入る物は何でも捕った」。天幕を袋代わりに放り込みました。「魚の組」は魚が群れている川に銃弾を打ち込み、衝撃で浮いてくるのを手づかみで捕りました。「犬の組」は銃を後ろ手に隠し持ち、どんな犬でも撃ちました。炊事場の裏は犬の残骸が山を成していました。
 白昼、民家に押し入り、食料などを奪う事もしました。「よその地行って土足で上がって、目ぼしいものを捕ってくるなんて、そんな無茶なことはない。徴発なんて日本軍の勝手ないい分。人間として許されないこと」。
 望郷の念は常にありました。「同じ死ぬなら、一歩でも内地の土を踏んでから死にたい」と。上官の制裁に耐え切れず、首をつる初年兵もいました。家族には「戦病死」と告げられました。「'たたかって病で死んだ’なんて・・。戦争ほど惨めなものはないよ」。

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