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2008年12月31日 (水)

大晦日にどうしても伝えたい。寒空に放り出された労働者へ!

 今年08年最後の日、今早朝。
 この寒空の下に労働者が放り出されている。
 住まいをも奪う結果を知りながら、大儲けの手段として散々こき使っておいて、さあ、儲けが減るぞと成った途端、非正規雇用労働者首切りに走りだしたトヨタ、キャノンをはじめとする日本を代表する大企業。
 日本に於ける、日本の大企業の社会的責任感ゼロをわたし達は許してはいけない。その反撃の闘いは全国で始まっている。「決して一人ではない!集まろう!」と。団結の力はすでに結果を出してきている。
 
 今日を生き延びて欲しい!貴方の命と、共に生きたい。人間らしく生きられる社会を取り戻すために、一緒にもう一踏ん張り、頑張って生きよう!全国各地に、今日から正月中も支援場所がある!東京、日比谷公園には支援村が出来た。090-3499-5244(臨時電話)も設置されている。 全国に、貴方と共に生きたい人々が大勢いる。全国各地の日本共産党の組織に連絡しても必ず相談に乗るから!一人っきりでは無いから!

 

 
 
 

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2008年12月23日 (火)

大統領が直接工場に乗り込む欧州と、何も労働者の為にはしない日本。「自由主義経済」だからは理由に成らない。やる気が全然無いだけのこと。

 「百年にいっぺん」と自公政府は云いながら、来年度予算案でもその様な対策を講じない。
大企業の首切りを法的に規制せよ、と国民が必死の叫びをあげても、「自由主義経済を壊すから」と拒否。本当でしょうか?自由主義社会・経済と言えば日本なんかより全然歴史の長いヨーロッパではどうなのか。
 百年に一回といわれる世界的経済危機に対して、ヨーロッパ各国政府は労働者を守るために仕事をしているのです。フランスのサルコジ大統領は自動車大企業・ルノー工場に自ら乗り込みました。雇用相・ローラン・ボヱキ氏は「ルノーのような巨大企業グループは資産も持っている。雇用を破壊させておくのは論外だ」と発言。大統領はサンドゥビル工場の「閉鎖はしない」という確約を取りました。フランス労働総同盟は言います「生産を海外に移転させなければ企業活動を続けられたはずだ」。
 さて、ドイツはどうか?ドイツにはまず解雇制限法と言う法律が在り、集団的解雇を厳しく制限しています。ベンツで有名なダイムラー社では、今月いくつかの工場で操業短縮を決めました。関連する労働者の人数は3万五千人です。勤務は週三日ないしは四日で夜間勤務も在りませんが、通常勤務の賃金の90%が保障されます。
 スペインではどんな様子でしょう。国際通貨基金(IMF)はスペイン政府に対して「解雇規制の柔軟化」を勧告しました。簡単に言えば、自由に企業が労働者を首切りできるようにする為の勧告ですが、スペイン政府は拒否したのです。スペインのサバテロ首相はスペイン経団連の会合で「IMFの処方箋は過去に役立ったことはない」。
スペインにも解雇規制の法律が在ります。大規模な解雇(300百人以上の事業所で、その一割以上の解雇)は行政当局の許可が必要なのです。
 日本、もう最悪です。正社員をどんどん減らし、非正規雇用にする自由権を企業に1996年に政治が法律として与えたのです。それまでは、非正規雇用労働者は業種が限られていましたが、その96年から全業種、自由になったのです。日本共産党以外の全政党が賛成して出来上がった法律のお蔭です。秋田のキャノン工場では70%が非正規雇用です。たった30%の正社員。
 こんな日本に誰がしたのでしょう。学校出ても就職先が無い。やっと就職できたと思っていたらリストラ。自由主義経済体制を維持するためには、政府ないしは国が、企業が使い易い、使い勝手が良い労働力の供給には法律を作ってでも後押しするが、労働者を守ることは絶対、自由主義経済体制を守る為にしない、本当か、大嘘です。企業の自由な経済活動を守るという名の下で、企業を保護する法的な手段は選ぶ。それこそ、いわゆる社会主義です。はないですか。そこで働く労働者の生き死にに関わる重大事でには、関心も興味も無い、労働者を守る役に立つことは自由主義経済体制を脅かす・・・これって、企業を守る為には国家が関与し法律も作る、労働者を守る事には絶対国家は関与しない、企業に任せるって、云うことです。こんなことを、自由主義云々で語ることが、その語る人間の狡さを知らしめる。

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2008年12月17日 (水)

これ程無能な集団(分析力ゼロ・従って政策立案力ゼロ)だったことをあからさまにした、経団連、経営労働政策委員会報告の中身。

 日本経団連と言えば、日本の財界の連合体で、大企業の経営者の総本山です。
 その経営労働政策委員会と言えば、財界の儲けを直接左右する、大事な部署です。この委員会の今年の報告のあまりのずさんさと能力の無さを記します。
 まず「報告」は、現在の社会が何故こんなに深刻な状況に成ってしまったのか、この原因の分析も何も行わず、たたただ、資本主義にとっての脅威」と言う危機感だけという、漠然とした表現です。
 また、「報告」は、今深刻な大問題になっている非正規雇用労働者の首切り問題に、一言も触れていません。異常です。従ってこう書くだけです「大いに懸念される失業増」。まったく他人事です。
 昨年の同「報告」では「企業と家計を両輪とした経済構造を実現していく必要がある」と云って内需拡大にも触れていたのですが、今年は、「国際競争力の強化」が第一であり、賃金引上げは「国際競争力の低下を招く」として賃金引上げに反対しています。そして、雇用の安定という大儀名目を打ち出し、賃上げより、雇用の安定が大事と云う事によって、非正規雇用の首切りを脅し材料にして労働者の賃上げを押さえ込もうと拒否しています。これでは、家計は温まらないので、「企業と家計の両輪」は無理です。内需はもっと冷え込みます。
 散々良い事だと云って取り入れたさせた成果主義賃金制が、実は企業の利益と、企業の知恵の継続性という意味で悪い役割にしか役立たずだっとことが明らかに成りました。今年は「長期雇用を望む人への門戸を広く」ですって。成果主義賃金制を止めるが、これも、労働者の為みたいな顔をするのです。国民皆知っていることで、この云い訳は在りません。
 最後に御手洗会長の序文の一部をご紹介します。
 「企業は自社の売り上げや利益を追うだけでなく、社会や国、世界に貢献し、信頼を得ていかなければならない」。 さて、信頼は得られるでしょうか・・・何か白々しい・・・!

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2008年12月16日 (火)

飽くなき儲けだけを追求する日本の大企業が、労働者を追い詰め、労働者を闘いに立ち上がらせた。「黙っていたら明日からホームレス」。

 日本の大企業と政治は、長い時間をかけて闘いや争いを嫌う人々と、闘わない労働組合を作り出して来ました。かつて、働く人間の権利を守る労働組合に対抗して企業側が作り出した第二組合「同盟」が、何故か「労働者の味方」として復権し、「連合」なる労働組合のナショナル・センターの大きな一つになりました。
 闘争しない美徳みたいな、或いは、闘いは「階級闘争主義」みたいな訳の判らない偏見を作り出し、「55年体制の終焉」論みたいな、これも全然理解不能な意見をマスメディアが大きく取り上げ、もう「闘うのは古い」的感覚を国民にやっと植え付ける事に成功しかかっていたのに、その努力を台無しにしたのが、経団連会長御手洗氏らの浅はかな、目先の利益だけに釣られた儲かるだけ儲けよう主義での愚かさだったのです。
 明日からホームレスに追い込まれれば、みな闘いに立ち上がります。
 いすゞ自動車栃木工場・藤沢工場・日産ディーゼル工業、大分キャノンなど、大企業の壮絶な現場から労働者が立ち上がり出しています。全労連などのナショナル・センターも、非正規雇用労働者を守れと立ち上がっています。この動きは、大企業の横暴勝手を追い詰める大事な闘いの始まりでしょう。
 

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2008年12月14日 (日)

これからマスメディアも取り上げますよ、議員日当制度。私は今から大反対です!!

 村会、町会、市会、、県会議員、何でも良いのですが、今日のサンデー・プロジェクトを観ていたら、、どこかの議会で、議員報酬を議会に出席した日にちによる日当せいにする事が決まったそうです。そしたら、選挙に立候補する人も増えて活性化、選挙費用も減ったとの報道でした。何か、良いこと尽くめのような報道でした。この議決に反対した政党は、日本共産党だったそうです。この議員は再選されました。
 私は思うのです。一見良さそうな意見に在る落とし穴、これを見抜かなければいけないと思うのです。議員定数削減も同じなのですが、村なり町なり市の議会費用は削減できるでしょう。でも、議員は、議会に出席する事だけが、仕事なのでしょうか?そこに住む人々の生活実態を知り、相談に乗り、解決のために色々工夫するのが仕事なのではないかと考えます。議会に出席して、自分の、勝手な主張を通せば良い訳では在りません。
 自分が生業を持ちながら、片手まで出来る議員活動が本来の議員の役割だと考えるなら、それも可能でしょうが、そこかしこの地域で、法律のセーフティーネットを通り越して暮らしを維持しなければ成らない人々がいて、そんなことが多々ある現実の世の中なのです。そんな中で活動する議員が、仕事の片手まで出来る訳無いのです。一見良さそうな意見の落とし穴として、お考え下さいませんか?

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2008年12月12日 (金)

国民の敵・国民を騙す謀略政党振りをあらためて示した、公明党の「消費税増税次期明示せず」に自民党が妥協。簡単なことは、時期を明示せず、ですから増税には賛成、でも、選挙で負けるから、国民には黙っていよう。

 麻生首相の求心力なんて、もう、とっくに無くなっています。また国民にとっては、どうでも良いのです、マスメディアは騒いでいますが。
 「明るい性格で、判り易い。良いんじゃないですか」と評価していた公明党・浜四津代表代行。この時の麻生氏への評価はもう、たった二ヶ月で変わったのか?
 国民は麻生氏と会ったことも、話をしたことも無いのですが、たった二ヶ月で、この人は国民生活を何とか少しでも良くする人では無いと、この人は明るい性格だからでは解決でき無いと見抜いたのです。「政治家」公明党代表代行は麻生氏をよく知っているのに、褒めそやし、支持し、何か期待できる良い首相が選ばれたと云ったのです。
 この時も、実は国民を騙すお仕事をしたのです。
 そして今回も国民騙しの「論陣」を張って、消費税増税の狙いと企みを国民から隠し、国民の大きな選挙の考える選択肢を奪ったのです。
 「生活を守るのは公明党」でしたっけ?散々雇用制度を壊し、実際は国民の安心できる生活の根本である仕事を不安定にしておいて、更に若者の生きる希望さえ奪っておいて、やっと出来た子供の保育も安心できない民間任せにしておいて、全然安心して働けない状態を作り出しておきながら、生活保護も含め、社会保障のネットワークをずたずたに切り刻んでおいて、どこが、生活守るのか嘘っぱち。
 選挙中は「消費税増税を止めさせた公明党」の宣伝が流されるのでしょう。単に、増税時期を明示させなかっただけなのに・・・ここが、私が公明党をは謀略政党と言う理由です。

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2008年12月 9日 (火)

アメリカ・ビック3にリストラ義務。たいして違わない二大政党の行き着くところ。

 自国の、無責任な経済から派生した世界不況。そこで、自動車ビック3に、財政支援を行うなら、リストラを義務付ける事がアメリカ民主党から提案されました。
 これって、労働者は何も世界不況の責任は無いのに、一緒に、率先してまず、責任を取れって云っているのと同じです。株主の人減らしはしないけれど、労働者の首は切る。これが、世界的な民主党という政党の素直な「顔」なのです。それが、真実であり、間違いの無い民主党の姿なのです。

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あなた達マスメディアは変ですよ!国民そっちのけの「政界再編論議」とやらを、国民にとって大切な事のように報道するマスメディアの無責任さ。

 あれだけ馬鹿騒ぎ報道をした自民党の総裁選が、いかに国民を馬鹿にした物であったかは、現在の結果を見ればよく判ります。当時、テレビ局に「行きすぎた過剰な報道ではないか?ほかに、もっと国民に伝える大事な事は無いのか?」と私が抗議しても「われわれは、総裁選が国民にとって最重要なニュースであると考えている」としか答えなかったマスメディア。二ヶ月ほど前の、あの大騒ぎ報道が馬鹿馬鹿しい騒ぎであったことは、今やもう国民自明のことに成っています。既に、使命を終えた自由民主党という政党の新総裁なんて、誰が成ろうが国民にとって何の意味も成さないことと判りきったことだったのです。マスメディアも実は解っていたのです。でも、総選挙近しと踏んだメディアは、自民党の応援隊に成っただけです。
 今度はどうか?今度は「政界再編論議」を大きく報道し始めました。
 もう麻生首相に内閣退陣の引導を渡そうとしているのです。
当然退陣すべきですが、たった二ヶ月前にあれだけ大騒ぎしていたマスメディアが主張しだすと、私はあなた達変ですよと言いたい。大体から、今「政界再編論議」なることを主張している人の云っていること聴けばすぐ判る。この人たちは、国民の事を何も考えていないことが・・・
 その証拠。総選挙が終わった後に、結果を見て、自分の行動を決めると云う人が殆どです。
要するに、自民党が大敗北したら、自民党を離れて何か行動を取る。それなりに勝てば、まあ自民党にいます。
 これが「政界再編論議」の中身です。ここの何処が、国民にとって大事なのでしょう。この「論議」で大切にされているのは本人、代議士だけです。自民党だからと思って投票する人だっているはずです。その国民の投票した意思を、何と考えているのしょう。何も考慮していないことです。完全に沈む事が判っている自民丸から、何とか自分だけ助かりたいだけです。この人は、どこに行っても、国民のために成る政治はしません、。何故なら、今までの自民党と公明党の連立内閣の中で、国民生活を底の無い非情な世界に放り出してきた。それも大臣や役職にも就いてきた人達がいっぱい。私達は、そんな人たちの「政界再編論議」に何を期待出来るのでしょう。
 マスメディアは、民主党の枝野氏など、実は自民党の元来の主張と全然変わりの無い主張をする人達と、自民党のこれら「再編論」者が一堂に集まったなどと、何か重要な意味のある出来事のように報道していますが、国民の選挙権の正当な行使さえ無意味にするような選挙後再編などの主張を繰り返す再編の動き(?)を、何の批判も無く垂れ流すことは、それこそ重大な国民に対する、無意味な期待を抱かせ様とする悪質極まりない態度です。
 

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2008年12月 7日 (日)

スペインの日産が解雇撤回。政治がしっかり役割を果せばこうも違うのです。

 バルセロナにある日産工場では、1680人の首切りを止めさせました。
 労働組合側は解雇計画に反対して二ヶ月にわたって抗議行動をしていましたが、スペイン政府が仲介に入り、労使双方が当初の立場から譲歩し、日産側は1 1680人の解雇取りやめ、2 3500人が三月末まで交代で一時帰休(最長75日まで)、3 影響を受けた労働者に最大で給与の9割に当たる手当て支給、4 今後の生産計画について労組との交渉継続、を提示しました。これを受けて労組側は抗議行動を中止を発表したのです。
 これらの話し合いは労働省内で行われ、労働省・労働関係局長がs立会い行われました。
 大企業の、違法な首切りに対して、ただただ経団連に要請しか行わない日本の政府の腰抜けの態度とえらい違いです。

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2008年12月 6日 (土)

私達が比較的弱い、日清、日露戦争の事実を、暗唱するほど理解しましょう。田母神氏を含め、彼らはその時代の戦争から、正当化を始めています。

 私は日清戦争何ていうと、大昔の戦争みたいに思っていましたが、これ、調べて見ると最近の、約百年ぐらい前の出来事でして1894年のことです。
 私は明治時代に成ってからの日本の戦争漬けみたいな、十年に一度の新たな戦争政治、これをチャンと整理しないと、天皇制政治の野蛮性を暴けないと思いました。
 昔、日本の歴史では、大体平安時代の頃から宮廷といえば、暇を持て余し、蹴鞠を蹴るしか用が無いくらい暇の代名詞でした。性的には、今の感覚で考えれば「おぞましい」「破廉恥」な生活をしていたのが宮廷の生活実態です。母子相姦当たり前。お嫁さんと父親が交わるのは当たり前。
 こんなことも異常ですが、もっと異常なのは、人を人間と思わないことです。同じ身体を持っていても、こっぴどく差別する。この野蛮性は、綿々と受け継がれ天皇制政治の象徴と成っているのです。これが大好きだ、これこそ私の本望だ、という方はそれで結構では在りませんか。天皇陛下の御家臣として嬉々としていれば宜しい。
 私は嫌です。そして百年前の戦争の本質も明らかにします。

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日本の戦争の総点検 12

 日露戦争は講和の時点までは、日本の連戦連勝だったのですが、果たして、それから先戦争を続けられる状態だったのか、これは私の知らなかったことです。前回書いた記述に在るように、国民が凡そ知らされていたこととは全然違う事情があったのです。最初のうち、講和の直前までは、精鋭の日本軍と高齢のロシア軍の闘いだったのです。1905年というと、ロシア革命の前です。ロシアは、日本との戦争に精鋭部隊を出せなかったのです。国内で大きく成った革命運動に、精鋭部隊を当てなければ成らなかったのです。日本はどうだったか。講和会議にも臨んだ外交官、石井菊次郎は次のように回顧しています。「顧みれば(かえりみれば)我が兵員弾薬ににあり財政もまた逼迫す。財政は窮乏の極に達し、現役兵はおおむね戦死して鰥寡孤独(かんかこどく『戦争未亡人とみなしご』)は途に満ち、予後備の老兵を以って僅かに前線を支える有様であったろう」。それに対してロシア側はどうだったか。ボクロフスキー『ロシア史』の記述です。「日本は自国の死活に関するこの戦いに、その最精鋭な軍隊を送った。之に対して、ロシア政府は、その最優秀の勢力である本部隊を、国内の敵との闘争の為に、革命鎮圧の為に残しておいて、満州には最も年齢の高い予備兵を送ったのである。兵卒は四十歳から、時には五十歳以上で、最早兵営生活に耐えられず、また往々新しい連発銃の扱い方すら知らなかった。砲兵は、殆ど全部、ロシア砲兵隊が戦争の前に受けとったばかりの新しい速射砲の取り扱い方を知らなかった。このお陰で、日本の砲兵は、その大砲がロシアのそれよりも劣っていたにもかかわらず、至る所でロシア砲兵の砲火を沈黙せしむることができたのである」。クロパトキン『ロシア軍隊と日露戦争』を、引用して「奉天のあとでは、形勢はあきらかに不利に動いていた。新たに総司令官に任命されたリネヴィッチ将軍は、最後の派遣部隊第十三軍団の到来を待って、決戦を開始しようと準備していた。講和会議の八月に、ロシアは『開戦後はじめてその軍隊を完成した』。老朽兵は背後に斥けられ、十万のヨーロッパ戦列兵は、ロマノフ家きょうきゅうのために、満州に送られてきた」。
 この問題に関して三笠宮崇仁氏がインタビューに応えるなかで感想を語っています。「最後にロシアが降伏したのは、軍事的に敗れたのではなく、国内で政治的混乱が起こったからでした。それを日本軍の力が強かったから、相手が負けたのだ錯覚したわけです。そしてその錯覚が昭和の時代まで続いたのですから、恐ろしいことでした」。戦争継続となれば、今度は日本が老兵で、ロシアの精鋭と戦う羽目になったのです。それで、講和を急いだのです。ルーズベルトアメリカ大統領の仲介で1905年日露講和条約の調印に至りました。日露戦争は、最初から早期講和を前提としたものでした。防衛研究所協力による『日本の戦争ー図解とデータ』の日露戦争の項では、開戦前の構想として次のように書いて在ります。「日本としては、陸・海ともまず極東にある露軍を各個撃破し、ついでに来援部隊を逐次撃破しつつ、露国の内政の乱れと中立l国の仲介で和を講ずる方針をとり、開戦とともに密かに明石大佐に対露謀略の特命を与え、講和仲介の依頼の為金子賢太郎氏を米国に、戦費の為の外債募集のため高橋是清を欧米に派遣した」。アメリカに派遣された金子が、ハーバード大学同窓のルーズベルト大統領に内々で会って、講和の仲介を依頼したことは、現在では有名な事実として知られていますが、当時の国民は何もしらされないで、戦争協力に駆り立てられたのです。

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日本の戦争の総点検 11

 前回記したように実際「戦争となってから、ロシアの同盟国フランスは、イギリスにけん制されて何一つ具体的援助をロシアに贈ることが出来なかった。また、ロシアの黒海艦隊は、イギリスがトルコに迫ってダ―ダネルス海峡中立条約の厳守を要請した結果、遂に東洋に廻航することができなかった。バルチック艦隊はその遠征の全行程に於いて終始イギリスの基地を避けねばならなかった為に、著しい不便を忍ぶほかなかった。我が戦費の外債に依った部分の半分はロンドンで調達された。勝因の間接方面に於いては、日英同盟が大なる地位を占めたことも争う余地が無い」(前記『外交史』)。
 何故イギリスは日本に対してこれ程の援助をしたのか。決して「親日」の国ではありません。本音は日本の勝利ではなく、日本とロシアが牽制しあうことでした。その証拠もお示ししましょう。
 イギリス外務省パーチの覚書、1901年3月11日。「その遼東半島の日本による領有は、ロシアと日本の間になんらの了解も再び起こらぬ保障となるであろう。このことは、イギリスとヨーロッパにとって利益であらう。黄禍はロシアによって防遏(ぼうあつ)され、ロシアの危険は日本によって阻止されるであろう」。つまり、日英同盟によって、日本はロシアの南下政策を抑止し、反帝国主義運動を鎮圧する『極東の憲兵』として、イギリスを中心とする東アジアの帝国主義支配の枠組みを支える一員として位置づけられるようになったのです。
 さて、日露戦争の戦費はどのくらい掛かったと思いますか。総額十七億二千万円です。其の内外国債が八億円です。人員損失、戦死者は、十一万八千人です。旅順港への奇襲に始まり、遼陽会戦、旅順要塞攻略戦、奉天会戦、日本海海戦など、陸・海とも連戦連勝でした。連続する大勝の報は、国民をわきたたせました。「講和で何が取れるか」の夢をふくらませたのです。ところが、講和条約交渉が始まってみると、国民の期待していたものと大きく違ったのです。結局南樺太を領地にしただけでした。「臥薪嘗胆」を強いられ、重税と生活苦に耐えてきた国民が、「連戦連勝」の報をうけてきた講和の夢を破るものだったのです。そして、日比谷焼き討ち事件と騒動が全国に拡がります。1905年9月5日に、東京日比谷公園において講和反対国民大会が開かれたさい、政府が集会を禁止し、数万の群集と警察が衝突しました。群集は国民新聞社、内務大臣官邸、警察署、交番など二百六十余箇所を焼き討ち、破壊しました。警察と民衆の衝突は三十数回を超え、死者十七人、負傷者五百余人、、警察側にもほぼ同数の負傷者を数えました。検挙総数千七百余人、起訴された者三百十一人にのぼりました。そして政府は講和反対・政府批判を続ける新聞・雑誌を次々と発行停止にしました。事件は全国にひろがりました。
 講和反対と言う形でしめされた国民の怒りは十年間植え付けられてきた「三国干渉」に対する報復心と、連戦連勝報道のなかで描いてきた講和条約への夢が破れたことにありました。大軍拡と戦争の為の重税と物価の高騰による生活難などへの不満が講和条約の内容によって爆発した行動でした。戦争の実態を知らされずにきた国民のゆがんだ形での怒りの表明だったのです。戦争の実状は、国民には隠していましたが、もう、戦争を続けることの出来ない状態だったのです。

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日本の戦争の総点検 10

 日清戦争から十年、義和団鎮圧戦争から四年後、日本は再び戦争を戦います。日露戦争です。
日露戦争は私も小さい時から「知って」いました。「明治天皇と日露大戦争」なんていう映画が盛んに上映されていたのです。嵐寛十郎と言う俳優が明治天皇で、威厳があって立派でした。ロシア・バルチック艦隊を殲滅したり、203高地の奪い合いに勝った時のなんともいえない胸の高揚を、覚えています。東郷平八郎も覚えています。偉い人だった記憶もあります。でも、何の為の戦争だったかは、全然覚えが在りません。
 前回書いた「臥薪嘗胆」を合言葉に、日清戦争開戦時七個師団だった日本陸軍は、日露戦争開戦時には十三個師団になりました。海軍も日清戦争翌年の1896年から1905年までの十年間に、四隻の戦艦、十一隻の巡洋艦を含む百三隻、合計十五万三千トン建造計画を、早くも1902年にほぼ実現しました。日清戦争開戦時は六万三千トンでしたから、二倍半に拡張した訳です。これが、私が学校で教わった富国強兵政策だったのです。
 では外交の準備はどう進めたのか。今までと違う条件は、海外列強の帝国主義国の仲間入りをしたことですから、外交のことも考えねばなりません。軍事評論家の伊藤正徳は『国防史』で「日英同盟を離れて日露戦争を語ることは、不可能ではないまでも、少なくとも困難である。それほど日英同盟は、我が対露外交の後ろ盾として有効に利用され、且つ軍事的準備及び戦争の遂行そのものの上に活用されたのである。1904年の政局は、当時二等国であった日本が、世界的大国イギリスと組んで、他の世界的強国といわれたロシアを討ったものである」といっています。日露戦争は1902年(明治35年)1月に調印した日英同盟なしには、戦えませんでした。日露戦争時に日本が保有した艦船をみると、戦艦は六隻、装甲巡洋艦も六隻中四隻がイギリスで建造したものでした。戦費の調達も、大増税と日清戦争の賠償金だけでは賄えず、外国債に依存するのですが、この面でもイギリスに大きく依存したのです。日英同盟は、清国における日本の権益を互いに認め合って、その権益が列国の侵略的行動もしくは騒動の発生、つまりは中国人の闘争によって侵迫された場合には両国がいずれもその利益を守る為に、「必要欠くべからざる措置」をとること、(第一条)日英いずれかが戦争を開始した場合、双方は中立を守り(第二条)その戦争に他の一国または数国が加わった時は、お互いに参戦して援助する(第三条)というものでした。

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日本の戦争の総点検 9

 日本が占領した台湾、澎湖島では、日本軍への抵抗運動は起こったのか。
やはりここでも起こりました。日本は日清講和条約で清国の遼東半島、台湾全島及び付属諸島嶼、澎湖列島を日本に割与することを認めさせました。いかし遼東半島はロシア、フランス、ドイツのいわゆる「三国干渉」で返還させられました。日本が「臥薪嘗胆」(がしんしょうたん 味わった屈辱を必ずはらす決意)を叫び、この恨みを晴らすべく、日露戦争へと軍備拡張、富国強兵の戦争体制を整えるきっかけになります。
 台湾・澎湖島では、官民あげての反対運動が起こるのです。台湾民主国の成立を宣言し、その宣言では「わが台湾敵に仕うるよりは死することを決す」と言っていますから、並みの反対ではなかったことが分ります。その証拠に、攻撃を恐れて台湾割与=主権授受式は地上ではなく、軍艦上で行わなければ成らなかったのです。当時の日本陸軍は十五万人程度の軍隊でしたが、その三分の一の五万人の部隊を派遣して、日清戦争につぐもう一つの戦争、台湾植民地戦争をおこなわなければならなかったのです。台湾の抵抗は激しく簡単には終結しませんでした。犠牲になった台湾人は一万七千人を超えました。
 日本が台湾を占有してから五年後の1900年。中国で爆発した帝国主義反対の闘い、義和団運動鎮圧の為に、帝国主義諸国の中国に対する国際的干渉戦争に参戦します。このことを、防衛庁・防衛研究所戦史部員の川野照晄明氏『近代日本の戦争史』の中で「あたかも屍に群がる『はげたか』の姿を思わせるものがあった」と書いています。日清戦争に敗れて生活や生産を破壊された農民や修行者は、秘密結社義和団に結集して、列強諸国から来て不平等条約を後ろ盾にして小作料を徴収したり財物を騙し取ったりするなどの横暴をくりかえした一部のキリスト教宣教師や教会を襲撃するなどの、反帝国主義運動を各地で展開していました。この義和団運動が、北京・天津地方に迫ってくると帝国主義諸国はイギリス・アメリカ・ロシア・日本・フランス・ドイツ・イタリア・オーストラリアの八カ国連合軍を派遣して鎮圧に乗り出します。各国の帝国主義的権益を守ろうと中国人の運動に対する干渉と、敵対的立場を鮮明にします。日本はアジアの一国でありながら、一個師団二万二千人を派遣し、他の帝国主義国との初めての共同作戦でアジアの一国、中国を攻めたのです。派遣の兵員数も多かっただけでなく、戦死者も群れを抜いて多かったのです。犠牲を省みず「勇敢」に戦い、他の帝国主義諸国に日本の存在を大きくアッピールしたのです。
 外務省編『小村外交史』は1941年の時点で次のように書いています。「義和団は複雑な政治的色彩を持っているが、其の根底は列強の飽くなき帝国主義的侵略に対する民衆の反抗的暴動であり、その鎮圧に際し最も強力な先鋒となり、更に最も忠義に列強の方針に追従することに依って、日本は始めて列強と対等の立場を獲得し世界の舞台に登場するに至り愈愈よく極東の憲兵としての実力をかわれたのであった」。こうして「北清事変議定書」では、日本軍の中国駐留を認めさせたのです。そして、この軍隊が1937年、盧溝橋事件を引き起こし、日中全面戦争に突入していくのです。そして、この義和団鎮圧戦争で、日本で始めて戦争反対の声が上がったのです。幸徳秋水の「非戦主義」です。

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日本の戦争の総点検 8

 朝鮮国内で、朝鮮人による日本軍への抵抗運動は起きなかったのか。
朝鮮王宮の軍事占領はたちまち朝鮮全土に知れ渡り、怒りが広がりました。朝鮮は、日清戦争の主要な戦場になり、清国軍を駆逐した後も撤兵しません。1895年の王妃、閔妃殺害(10月)と、朝鮮政府の行った「断髪令」(11月)が朝鮮人の鬱積していた反日感情と怒りに火をつけました。東学農民革命に始まり、その後は朝鮮人が武器を手にして闘った反日義兵闘争に引き継がれました。この義兵闘争にも、日本軍は襲いかかります。その掃討作戦によって、日本軍の発表でも一万八千人近い義兵を殺害しました。朝鮮は日露戦争でも戦場にさせられました。また1905年、保護条約で韓国を「保護国」にしたことに対する怒りの爆発として、激しく本格的な闘いになりました。さらに1907年、ハーグ密使事件が起こります。この事件は韓国皇帝・高宗(こじよん)が、ハーグの万国平和会議に密使を送って保護条約の不法性を訴えさせようとした事件です。これに怒った当時韓国総監の伊藤博文が、皇帝・高宗を退位させ、軍隊を解散させたのです。1908年から韓国全土で義兵が立ち上がりました。日本は朝鮮軍の解散を命じたのですが、その解散式で朝鮮軍が蜂起して日本軍との戦闘になり、義兵と合流して激しい戦闘が全国で続きますが、日本はその朝鮮人の闘いを軍事力で鎮圧し、韓国「併合」となりました。
 「朝鮮駐箚(ちゅうさつ)軍司令部」編纂の「朝鮮暴徒討伐誌」によると「韓国軍を機関銃で猛烈に射撃せり。韓兵の戦死将校以下七十余命負傷将校以下百四名捕虜六百名に達す。我が軍の損害は戦死梶原大尉以下四名、負傷、将校以下二十一名」となっています。「討伐誌」には「1906年洪州の討伐では死屍八十二俘虜百四十五」などと「討伐状況」を細かく記述しています。この「討伐」は手段を選ばなかったことも記述されています。
 「事件発生初期に於いては、土人亦彼等暴徒に同情する傾向ありしを以って討伐隊は責を現地の村に帰して誅戮(ちゅうりく)を加へ若しくは全村を焼夷する等の処置を実行し忠清北道提川地方の如き極目(見渡す限り)殆ど焦土たるに至れり」。また1907年8月から1911年6月までで「義兵との衝突二千八百五十二回、この戦闘による我が軍の戦死者百三十六人、負傷者二百七十七人、義兵の死者一万七千七百七十九人、負傷者三千七百六人、捕虜二千百三十九人」と書かれています。これも「朝鮮独立」の為に日本が起こした戦争の一部です。

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日本の戦争の総点検 7

 開戦と同時に提起されていた南方作戦が、いよいよ始まります。1895年1月13日、戦艦松島、橋立など9九艦、供給艦、病院船などからなる艦隊と陸軍一支隊を派遣して澎湖島を攻略することを決定。3月15日佐世保軍港を出発しました。3月23日上陸し占領作戦を開始。3月25日占領作戦を終了しました。日本は澎湖島占領を拠り所に日清講和条約第二条で台湾、澎湖島を「割与」させました。しかし、戦争は終わりませんでした。日本の植民地に成ることに反対する住民が武器を持って闘いを開始したのです。これは1915年まで、二十年間に亘る泥沼の戦争が続きました。
 この占領作戦自体は二日で終結しましたが深刻な事態が在りました。日本軍の戦死者は三人でしたが、軍の資料によると、千二百五十七人の日本兵が死んでいます。死因はコレラです。それも澎湖島で伝染したのではなく、3月15日、佐世保軍港を出発する時にすでにコレラが発生し、講和会議が迫っていたので、軍はコレラを隠し、「急性大腸カタル」ということにして出発を強行したからです。コレラは船内で広がり、航海中に三十五人が死亡。上陸して、占領作戦を展開した時には一日に二百人以上の死者が出たのです。その結果、患者千七百人、死者千二百五十七人の犠牲者がでたのです。澎湖島の住民にも当然感染しましたが、その患者数などは軍の資料に欠落しているので判りません。
 日清戦争の主な記述は今回で最後としますが、ここで、何人の日本人兵隊が、死亡したのかお明らかにしましょう。参謀本部の記録。戦死 1132人。傷死 285人。 病死 1万1894人。 変死 177人。計 1万3488人。
 「朝鮮独立」の為といって始まった日本の最初の大きな戦争。日清戦争の在りのままの姿は如何でしたか?
次回からは、日本の朝鮮占領による朝鮮国内の動きを書きます。

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日本の戦争の総点検 6

 1894年9月15日。軍は天皇と共に大本営を広島にうつし本格的戦争態勢を整えます。「直隷平野作戦計画」をたて(直隷とは、君主又は政府に直属することで、ここでは現在の河北省のこと)直隷平野の大決戦で決着をつけるという大本営の基本方針に沿って、日本軍は奉天省東南部の作戦、旅順半島の作戦、遼河平原の作戦、山東半島の作戦と直隷大決戦の戦いを進めました。その結果南満州から遼東半島にわたる要地を結んで占領しました。この間、日本軍は1894年11月、国際的大問題になった「市民皆殺し」の旅順虐殺事件を引き起こします。
 この事件の虐殺の惨状は当時新聞等で報道されています。
「路上の死屍 旅順各街至る処に死屍横はる間々身首異にせしものあり、半ば首の切れたるあり、脳みその溢出せしもあり、腸の露出せしものあり、眼球の飛び出せしものあり、其の他手切れ足砕け粘粘たる血液の上に斃死せす様実に一見毛髪のしょう立するを覚ゆ」(東京日日新聞、1894年12月7日)。
 この事件は外国特派員によって「世界の新聞紙上にのぼるに至」りました。(外務大臣陸奥宗光『寨寨録』)
同書で陸奥が引用している報道記事によると「この際に殺戮を免れたる清人は全市内僅かに三十有六人にすぎず、これは殺された同胞人の死屍を埋葬する為の使役に要するがために救助し置かれたる者」と書かれています。外国の新聞は「日本が文明国ではなく野蛮の本体を露した」と報じています。日本外交文書にはアメリカ公使などによるこの事件にかんする厳しい申し入れが載っています。
 ここでもう一つ大事な記録が在ります。陸軍省編『明治軍事史』によりますと、1895年3月。直隷作戦に備えて、「大元帥陛下=明治天皇=の親しく全軍を統帥し給う所の最高府、大本営を広島から機を見て新作戦地に転進し、適宜の時機を計り先ず旅順半島に移り、後更に洋河口に上陸す」と計画を決めていました。ところがこれは変更されます。明治45年、伊丹歩兵中佐の陸軍学校における講義『日清戦史』で「明治天皇が大本営の諸員を従えさせられ新作戦地に御親征の筈であったが、御健康に関する群臣の憂慮を聞き入れその決心を翻した」と在ります。明治天皇が旅順に自ら乗り込もうとしていた明治政府の姿勢がハッキリと判る記録です。

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日本の戦争の総点検 5

 日清戦争は今まで述べたように清国兵を朝鮮から駆逐することを依頼されたという「大義名分」のもと、まず朝鮮領内で戦われます。1894年7月25日、宣戦布告もしないまま奇襲攻撃によるソウル近くの豊島沖海戦に始まり、陸上では7月29日の成歓の戦闘で本格化します。8月1日、清国に宣戦布告しました。戦闘は日本軍が勝利を続け、9月16日ピョンヤンで清国軍を打ち破り、清国軍は朝鮮領内からくちくされました。日本政府が主張した「朝鮮国王の要請」という目的は果たしました。ここで、日本がどのように対応したか。
 「日清戦史草案」は次のように述べていました。「若し今回戦争の目的をして単に朝鮮を掖扶(ふえき=たすけること)するに在らしめば即ち已む。苟(いやしく)も東洋全局の平和を将来に図るに在らしめれば、必ずまず此要地(台湾・澎湖島)を軍港となし、茲に完全の守備も設けざるべからず」。
 清国への宣戦布告の八日後、1894年8月9日の陸軍参謀会議での論議。「朝鮮半島に送るべき後続兵を一個師団に止め、たの一個師団を以って台湾を占領し、本冬季を経過せん」。会議の結論。「季節許さざるが故に、たとえ海戦勝利を得るも、作戦大方針第二期の作戦は、明年雪氷融解の機まで延期し、本年に於いてはまず大方針の場合に於ける如く朝鮮半島へ後続師団を送り敵を同島より駆逐し、明年作戦の地歩占めおくべし」ということになりました。当時の軍幹部達は、太平洋の将来構想を踏まえた日清戦争の作戦を論議していたのです。必ず、澎湖島、台湾を占拠しなければならないと結論付けていたのです。特に澎湖島については、「将来東亜の覇権をにぎり太平洋の海上を制する」のに必要とも云っていました。

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日本の戦争の総点検 4

 日清戦争開戦の八年前に、参謀本部第二局長小川又次陸軍大佐(後に大将)が密かに二度に亘り現地清国を調査しています。その上で「清国征討策案」をまとめました。1887年(明治20年)のことです。小川は「攻撃策案」として「我が帝国の独立を維持し国威を伸張するには、清を攻撃し、今の清国を分割して数小の邦国となすに非らざれば能わざるなり」として自国の独立と国威の伸張の為に勝手に他国を侵略する「理屈」を展開しています。「作戦計画」では「清国をして降を陣頭に乞わしめんと欲せば、我が軍を以ってかの海軍を撃破し、北京を攻略し清帝を禽獲(虜にすること)するを以って最上の手段とす」と書いています。朝鮮で、実際に王宮占領をしたとはいえ、更に清に対してもそれが最上の手段などとよく云えたものです。1890年(明治23年)三月には山県有朋が「外交政略論」を示し、「国家自衛の道に二つあり、一に曰く主権線を守護し他人の侵害を容れず、二に曰く利益線を防護し、我が利益線は実に朝鮮に在り。利益線を防護するため陸軍、海軍の軍備拡張」を強調しました。開戦の前年には川上操六参謀次長が朝鮮、清国を視察して戦争に備えますが「韓国出兵の議一度決するや我が帝国は明治15年及び17年の京城事変に際し、清国のためにつねにその機を先制されて失敗した。故に清国の韓国出兵に対しては、我が軍は清国以上の兵数をだして、15、17年の雪辱を雪がねばならぬ。之を撃破するに至らば、朝鮮を挙げて我が勢力圏と為すこと決して困難ではあるまい」。『陸軍大将川上操六』より。
 日清戦争は居留民保護のためも、文明の戦争論も何も無く、実態は侵略戦争でした。実際に戦争が始まると、朝鮮領内にとどまらず、鴨緑江を渡り中国領内に広がりました。ここに大東亜共栄権の原型が姿を現します。

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日本の戦争の総点検 3

 日清戦争は朝鮮支配を狙う清と日本両国の明確な侵略戦争でした。
日清戦争の「宣戦の勅旨」は「案」として六つの案が在りました。そのどれもが「清国に対して戦を宣す」というような案でした。それが実際には「朝鮮の独立」になったのです。この「独立のための戦争だった」論は、靖国神社が映画「私達は忘れない」で宣伝していましたが、1942年に当時外務省の実力者だった元政務局長、中田敬義氏は外務省調査部が行った外交史の編纂という企画による「日清戦争の前後」で「日清戦争などは事実においては、見方次第で侵略になっているのだと思う。日清戦争の時朝鮮の独立を維持するといったが、最後には保護国、合併するということになった」と述べています。
 これを、「朝鮮の独立の為の戦争」とはいえませんね。清国の属国を日本の属国にするための戦争だったのです。清国に宣戦布告する九日前、1894年(明治27年)七月二十三日、日清戦争に備えて朝鮮に出兵していた日本軍は、突如として朝鮮王宮を攻撃し、王宮守備の朝鮮兵と戦闘を交え、日本軍戦死者一名を出しただけで朝鮮兵を一人残らず城外においだし、武器を全部奪い、城壁に軍旗を立て、王宮を完全に占領、国王を虜にし、日清戦争での日本への協力を強要したのです。その一番の要求は朝鮮国内の清国兵を、日本軍の手で「国外に駆逐する」ことを、国王の口から言わせることでした。こうして異常な状態の中、日本は、日清戦争は朝鮮国王の要請を受けて清国兵を朝鮮から駆逐する為の戦争という大義名分を得たのです。何の為の戦争かという戦争の理由付けが出来たのです。これは偶然起きたことではありません。朝鮮王宮攻撃は、反日的な政権打倒、親日政権樹立の目的に沿って事前に日本政府の承認を取り付けた上での行動だったのです。1884年6月9日の大島駐朝鮮公使は陸奥外相宛報告に「朝鮮との交渉で、回答いかんでわが兵を以って直ちに王宮を囲み・・」と述べています。これらの事実は公刊されている参謀本部編「日清戦史」では完全に削除されていますが、大本営参謀本部編纂「日清戦史草案」には詳細に書かれています。ここにも軍隊の残した資料のいい加減さが現れています。
 ここで王妃殺害にふれましょう。日清講和条約調印(1895年4月17日)から半年も経たない1895年10月8日、朝鮮王宮占領事件から一年二ヶ月半後、日本の三浦梧楼公使らが、朝鮮王宮を襲い、王妃、閔妃(みんぴ)を殺害しました。彼女は反日の中心人物を取り除くという日本軍の犠牲になったのです。当時公使館領事だった内田定槌は「其の死骸は王城邸内の井戸へ投じたが、其れでは直ぐ犯跡を発見されると気付いたので、又それを引き上げて王城ないの松原で石油をかけて焼いた。それでも未だきがかりなので今度は池の中に放り込んだが、仲仲沈まないので又其の翌日かに池から取り出して松原の中に埋めた」と述べています。朝鮮の独立とは全然反対の朝鮮を日本の思うとおりし様としていたことの現れです。事件直後内田は三浦公使に「大変な騒ぎになりましたね」というと三浦は「いや是で朝鮮はもう日本のものになった。もう安心だ」といいました。(日韓外交資料)
 三浦の言葉「日本のもの」にしようという意識が当時の日本の中の意識だったことのあらわれです。三浦はその後枢密顧問官になりました。

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日本の戦争の総点検 2

 大きな戦争の最初は日清戦争でした。小さな戦争は後ほど書きます。
「戦争は単なる政治関係の継続と言うだけでなく、他の手段による政治の実現である」と言ったのはドイツ、19世紀のクラウゼヴィッツ将軍ですが戦争は高度に政治的現象なのです。「開戦外交」「戦争外交」と言われるように、日本の太平洋戦争終結前、二月の天皇の発言、終戦の決断を迫る近衛首相に「もう一つを戦果を上げねば」と云って終戦を伸ばしたのも、「終戦外交」の一つです。これによって、日本全土が空襲に見舞われ、広島・長崎の原爆投下を、もっとハッキリ言えば原爆の実際の実験を、アメリカにさせるきっかけを与えてしまったのです。その結果がアメリカ単独占領をも招いたのです。
 「宣戦布告」文もその外交戦の武器の一つであって、決して戦争の本当の目的を示しているとは言えないのです。更に、戦争が終わった後にまとめる「戦史」も、都合の悪いこと、不利なことは書かなかったのです。これは、私の勝手な想像ではなく、大本営参謀本部が「戦史編纂(へんさん)方針」を示していたのです。「国際法違反又は外交に影響すべき恐れのある記事は記述すべからず」「俘虜(ふりょ)、土人の虐待、若しくは中立審判と誤られ得べきもの等は、我が軍のの価値を減少するの恐れが在るが故記述しない」といっています。
 さて日清戦争です。宣戦布告文で「朝鮮の独立」を唱えながら実際にしたことは、宣戦布告(1894年8月1日)の八日前、七月二十三日に朝鮮王宮に攻撃をかけて軍事占領し、日本軍の侵略に反対する朝鮮農民の決起だった東学農民革命(朝鮮農民の国民運動)を軍事弾圧、殲滅したのです。そして翌年(1895年『明治28年』)には王妃を殺害、日露戦争を経て保護国としたのです。そして1910年(明治43年)には韓国併合をしてしまったのです。
 この戦争の「宣戦布告」と「講和条約」を比較してみます。「宣誓布告」では「極東の平和」とか「韓国の保全」とか云っていたのが、講和条約」では「韓国に於いて政事上及び経済上の卓越なる利益を有することを承認し、日本帝国政府が韓国に於いて必要と認むる指導、保護及び監理の措置を執るにあたり之を阻害し、又は干渉せざることを約す」。
 これで判りましたでしょう。宣戦布告文によって戦争の目的を決めることはまず出来ないのです。また「戦史」などでも軍隊に不都合なことは書かないと云っていたのですから凡そ真実はつかめません。

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日本の戦争の総点検 1

 沖縄集団自決を、ある意味、安部普三氏が云った広義、狭義の強制制に逃げ込む今の政府の姿勢がハッキリしてきた現在、私は多くの人々に日本の明治以来、日清・日露戦争に始まり、太平洋戦争の終結まで続いた戦争の本質を知って欲しいと思い、私が知り得た範囲で語ろうと考えました。このことを知ることが今大変重要なことだと思います。
 征韓論、征台論に始まった明治の日本。
 明治政府は成立から早くも六年後、1874年(明治7年)に中国(当時の清国)の一部である台湾に出兵しました。日本の最初の出兵は、1871年(明治4年)に台湾に漂着した琉球民が殺害されたのに対して、加害者を懲罰し、今後の航海安全策をとるという理由で三千六百人の日本軍を派兵し、先住民居住地区を武力掃討したのです。これは清国が「侵略だ」と抗議する中での出兵でした。アメリカのペリー来航による開国(1854〔安政1〕年)から二十年後のことです。インドの元首相ネルーは「開国以来二十年も経たないうちに、日本は中国に対して侵略的態度をとりはじめた」「日本は産業の方式においてばかりでなく、帝国主義的な攻撃のしかたについても、ヨーロッパのあとを追った。日本人はヨーロッパ列強の忠実な弟子以上のものであり、しばしばその上をいきさえしたのだ」(『父が子に語る世界歴史4=『日本のばく進』)
 ネルーは余程驚いたのです。戦前の日本を、「アジア開放のために戦い続けた国」なんて評価はされていませんでした。
 この頃から、自存自衛の戦争論は在りました。このシリーズで何度もこれから出てきますが、1945年までの約70年戦争のうち、太平洋戦争末期の沖縄戦以外は、外国から武力攻撃を受けた地上戦はただの一度もありませんでした。侵略されたことの無い国の自衛戦争とは、一体なんでしょう。ここに日本の生命線論が出てくるのです。どこの国であろうが、「ここが日本の生命線だ」と云えば、そこに軍隊を派兵したのです。

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日本の良心の一人、加藤周一さんの死を悼みます。

 晩年の加藤さんが行なったことの最大のことは、「九条の会」の呼びかけ人に成られ、「九条の会」を立ち上げられたことだと、私は思います。
 日本の現憲法が、改定の危機にさらされ出した昨今、「自由」を求められた加藤さんは、四年前、大江健三郎さんらと「九条の会」を結成され、憲法を守ろうと、活動されていました。今年になってガンが見つかってからも、旺盛に行動し発言していらっしゃいました。
 「九条の会の活動は長い時間をかける活動です。独りでも、憲法を変えようと云う人がいる限り、九条の会の活動は続くのです」。
 九条の会が結成されてから、全国津々浦々、多くの地域、学校区、職場、団体、教室に「九条の会」が誕生し、大きく世論を動かして来ました。それまでは、憲法改定賛成が多くの調査の結果、反対を上回っていましたが、「会」結成後四年、今年遂に、賛成を、反対が上回りました。それは、改定派の急先鋒、読売新聞の調査でもそうでした。画期的な世論の変化です。なるべく無視し、報道しなかったマスメディアも、「会」の存在を無視できなくなり、最近は少しは報道するように成ってきました。
 
 加藤さんの豊かな知性と、自由へのこだわり。物事を複眼的に捉える洞察力の深さと、日本文化を内と外から大きく論じたその意味する内容は、加藤さんの戦争への怒りが根源に在ったと思うのです。
 私は、加藤さんの思いを慎重にかみ締めながら、加藤さんに、本当にお疲れ様でした、ご安心下さいと言える自分自身の人生を歩みたい。  合掌

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2008年12月 5日 (金)

「防衛大50期生」からのコメントに対するお応え。貴方のご意見は一つの象徴的ご意見だと思いましたので、貴方のコメントを公開して記事としてお応えします。

 まず、貴方のご意見の内容をまとめますと、一つ、先の大戦での日本のアジアに対する戦争の効能として、ヨーロッパの帝国主義国からの独立のために日本の戦争は役立ったということです。二つ目は、戦前の歴史や、田母神氏の「論文」に対して意見を言うのなら、貴方が云う、アメリカの資料に対して否定できる確たる事が言えないのであれば、ブログで私が意見を言うのを止めるべきということです。三つ目は、日本のマスコミはパチンコ業界に支配されているということです。四つ目は、日本の戦争をアジアで批判しているのは、中国と韓国だけということです。五つ目は、天皇は国民の幸せを願って政治をしてきた。六つ目は、天皇に支配されるより、アメリカに支配された方が良いのなら、どうぞ田母神氏を批判してください。これが全てです。
 貴方は、紳士的にコメントを下さったので、コメントをお返し致します。ただし私の全面的批判をお読み下さい。
 1の問題からお応えします。まず、その後に起こった結果が、直前の事情のお陰だったと云うのは何も根拠のない、馬鹿げたことであると言ことを言いたいと思います。アジア諸国が第二次大戦の後、独立国家に成ったからと言って、日本のお蔭は、余りにも乱暴な意見です。それ程、アジアの国民のためになる戦いを日本がしていたのならば、何故日本軍はアジア諸国国民からの激しい反撃を受けて、私達の父親、或いは叔父たちが、苦しい戦いを強いられ、戦死し傷付いていったのでしょう。アジア中の人々から、まるで解放軍が来たように、何故歓迎されなかったのでしょうか。私が知っているフィリッピン人の女性は、親から聞いた日本軍の怖さ、強さでは無いですよ、怖さを身にしみて知っていました。これが、第一の応えです。
 第二。ブログでの意見の表明は、自由で在るべきです。これを、何か確信といえるものが無ければ云うなは、余りにも独りよがりだと思います。貴方が云っている「証拠」も、私にとっては証拠の価値も無い物だと思います。一体、何年の、何というアメリカの文書ですか?それも明らかでないのに、それを吟味しろは可笑しい。
 第三。日本のマスコミはパチンコ業界に支配されている、に至っては、北朝鮮を敵視するためは理解出来ますが、余りにも荒唐無稽で可笑しすぎます。
 第四。アジアで日本の嘗ての戦争を批判しているのは、中国と、中国に配慮している韓国だけと云う主張も、事実と違います。ついこの間、日本のアジア侵略を認めない日本の閣僚の発言に対して、インド、インドネシア、マレーシアの政府が抗議したのも、貴方は知らないのですか?
 第五。天皇制政府のことです。天皇は国民の幸せを願って政治を行っていたんでしたっけ?国民に権利は無くても。私は一人の人間として、貴方に伺いたい?同じ人間に遠別されて、施しを受けて貴方は生きたいのですか?それが貴方の人生の夢なのですか?自分で掴む人生では無く、天皇に与えられた一生を遂げるのが貴方の幸せなのですか?もしかすると、これへの答えが全てなのかも知れません。私は、奴隷のような人生はお断りです。自分の人生は、自分で決めます。
 第六。何か、支配される事を当然と考えていますよ。天皇に支配されるより、アメリカに支配される方が良いか、この選択肢の選び方、微妙で、ハッキリしているのは、誰かに支配されることを選べ、これです。
 最終的、貴方への結論的ご返事。
明治時代の人を含めて、天皇制政府の下でも、国民は貴方の云うとおり幸せに生きられたのかも知れません。
・・・働く労働者は、際限の無い労働時間、何も制限の無い切の無い時間を働かされました。これに文句を言えば、即首を切られたのです。この状況を何とか労働者が改善したくて、働く物の団結を促せば、牢獄に入れられ、時には殺されたのが天皇制政府の時代の真実です。身体に障害を持っている人は、社会の影に隠れて生きたのです。まだ幾らでも理不尽な事は在りますよ。それでも、貴方は幸せな世の中だったと云うのですか?
 このコメントをみた私の心は、自衛隊という暴力的軍事力組織は、とてつもない間違った知識を、国民が習っている正当な知識と全然別な、歴史認識を含め、国民がだれも戦後未だ習っていない軍国主義的な戦前の教えをどこかで受けているのだなと、ハッキリ感じました。それを明らかにしたのが、田母神氏の作文でした。
 私達は一人一人の僅かな力しか持ち合わせていません。それらが集まった時に、大きな力を発揮するのは、過去の戦争指導者も知っていることです。戦争指導者は、自分達だけでは何も事を起こせないのです。多くの国民を動員して初めて、戦争も出来るのです。ですから、もう戦争には協力しないようにしませんか・・・

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