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2008年12月 6日 (土)

日本の戦争の総点検 6

 1894年9月15日。軍は天皇と共に大本営を広島にうつし本格的戦争態勢を整えます。「直隷平野作戦計画」をたて(直隷とは、君主又は政府に直属することで、ここでは現在の河北省のこと)直隷平野の大決戦で決着をつけるという大本営の基本方針に沿って、日本軍は奉天省東南部の作戦、旅順半島の作戦、遼河平原の作戦、山東半島の作戦と直隷大決戦の戦いを進めました。その結果南満州から遼東半島にわたる要地を結んで占領しました。この間、日本軍は1894年11月、国際的大問題になった「市民皆殺し」の旅順虐殺事件を引き起こします。
 この事件の虐殺の惨状は当時新聞等で報道されています。
「路上の死屍 旅順各街至る処に死屍横はる間々身首異にせしものあり、半ば首の切れたるあり、脳みその溢出せしもあり、腸の露出せしものあり、眼球の飛び出せしものあり、其の他手切れ足砕け粘粘たる血液の上に斃死せす様実に一見毛髪のしょう立するを覚ゆ」(東京日日新聞、1894年12月7日)。
 この事件は外国特派員によって「世界の新聞紙上にのぼるに至」りました。(外務大臣陸奥宗光『寨寨録』)
同書で陸奥が引用している報道記事によると「この際に殺戮を免れたる清人は全市内僅かに三十有六人にすぎず、これは殺された同胞人の死屍を埋葬する為の使役に要するがために救助し置かれたる者」と書かれています。外国の新聞は「日本が文明国ではなく野蛮の本体を露した」と報じています。日本外交文書にはアメリカ公使などによるこの事件にかんする厳しい申し入れが載っています。
 ここでもう一つ大事な記録が在ります。陸軍省編『明治軍事史』によりますと、1895年3月。直隷作戦に備えて、「大元帥陛下=明治天皇=の親しく全軍を統帥し給う所の最高府、大本営を広島から機を見て新作戦地に転進し、適宜の時機を計り先ず旅順半島に移り、後更に洋河口に上陸す」と計画を決めていました。ところがこれは変更されます。明治45年、伊丹歩兵中佐の陸軍学校における講義『日清戦史』で「明治天皇が大本営の諸員を従えさせられ新作戦地に御親征の筈であったが、御健康に関する群臣の憂慮を聞き入れその決心を翻した」と在ります。明治天皇が旅順に自ら乗り込もうとしていた明治政府の姿勢がハッキリと判る記録です。

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