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2008年12月 6日 (土)

日本の戦争の総点検 12

 日露戦争は講和の時点までは、日本の連戦連勝だったのですが、果たして、それから先戦争を続けられる状態だったのか、これは私の知らなかったことです。前回書いた記述に在るように、国民が凡そ知らされていたこととは全然違う事情があったのです。最初のうち、講和の直前までは、精鋭の日本軍と高齢のロシア軍の闘いだったのです。1905年というと、ロシア革命の前です。ロシアは、日本との戦争に精鋭部隊を出せなかったのです。国内で大きく成った革命運動に、精鋭部隊を当てなければ成らなかったのです。日本はどうだったか。講和会議にも臨んだ外交官、石井菊次郎は次のように回顧しています。「顧みれば(かえりみれば)我が兵員弾薬ににあり財政もまた逼迫す。財政は窮乏の極に達し、現役兵はおおむね戦死して鰥寡孤独(かんかこどく『戦争未亡人とみなしご』)は途に満ち、予後備の老兵を以って僅かに前線を支える有様であったろう」。それに対してロシア側はどうだったか。ボクロフスキー『ロシア史』の記述です。「日本は自国の死活に関するこの戦いに、その最精鋭な軍隊を送った。之に対して、ロシア政府は、その最優秀の勢力である本部隊を、国内の敵との闘争の為に、革命鎮圧の為に残しておいて、満州には最も年齢の高い予備兵を送ったのである。兵卒は四十歳から、時には五十歳以上で、最早兵営生活に耐えられず、また往々新しい連発銃の扱い方すら知らなかった。砲兵は、殆ど全部、ロシア砲兵隊が戦争の前に受けとったばかりの新しい速射砲の取り扱い方を知らなかった。このお陰で、日本の砲兵は、その大砲がロシアのそれよりも劣っていたにもかかわらず、至る所でロシア砲兵の砲火を沈黙せしむることができたのである」。クロパトキン『ロシア軍隊と日露戦争』を、引用して「奉天のあとでは、形勢はあきらかに不利に動いていた。新たに総司令官に任命されたリネヴィッチ将軍は、最後の派遣部隊第十三軍団の到来を待って、決戦を開始しようと準備していた。講和会議の八月に、ロシアは『開戦後はじめてその軍隊を完成した』。老朽兵は背後に斥けられ、十万のヨーロッパ戦列兵は、ロマノフ家きょうきゅうのために、満州に送られてきた」。
 この問題に関して三笠宮崇仁氏がインタビューに応えるなかで感想を語っています。「最後にロシアが降伏したのは、軍事的に敗れたのではなく、国内で政治的混乱が起こったからでした。それを日本軍の力が強かったから、相手が負けたのだ錯覚したわけです。そしてその錯覚が昭和の時代まで続いたのですから、恐ろしいことでした」。戦争継続となれば、今度は日本が老兵で、ロシアの精鋭と戦う羽目になったのです。それで、講和を急いだのです。ルーズベルトアメリカ大統領の仲介で1905年日露講和条約の調印に至りました。日露戦争は、最初から早期講和を前提としたものでした。防衛研究所協力による『日本の戦争ー図解とデータ』の日露戦争の項では、開戦前の構想として次のように書いて在ります。「日本としては、陸・海ともまず極東にある露軍を各個撃破し、ついでに来援部隊を逐次撃破しつつ、露国の内政の乱れと中立l国の仲介で和を講ずる方針をとり、開戦とともに密かに明石大佐に対露謀略の特命を与え、講和仲介の依頼の為金子賢太郎氏を米国に、戦費の為の外債募集のため高橋是清を欧米に派遣した」。アメリカに派遣された金子が、ハーバード大学同窓のルーズベルト大統領に内々で会って、講和の仲介を依頼したことは、現在では有名な事実として知られていますが、当時の国民は何もしらされないで、戦争協力に駆り立てられたのです。

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