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2008年12月 6日 (土)

日本の戦争の総点検 7

 開戦と同時に提起されていた南方作戦が、いよいよ始まります。1895年1月13日、戦艦松島、橋立など9九艦、供給艦、病院船などからなる艦隊と陸軍一支隊を派遣して澎湖島を攻略することを決定。3月15日佐世保軍港を出発しました。3月23日上陸し占領作戦を開始。3月25日占領作戦を終了しました。日本は澎湖島占領を拠り所に日清講和条約第二条で台湾、澎湖島を「割与」させました。しかし、戦争は終わりませんでした。日本の植民地に成ることに反対する住民が武器を持って闘いを開始したのです。これは1915年まで、二十年間に亘る泥沼の戦争が続きました。
 この占領作戦自体は二日で終結しましたが深刻な事態が在りました。日本軍の戦死者は三人でしたが、軍の資料によると、千二百五十七人の日本兵が死んでいます。死因はコレラです。それも澎湖島で伝染したのではなく、3月15日、佐世保軍港を出発する時にすでにコレラが発生し、講和会議が迫っていたので、軍はコレラを隠し、「急性大腸カタル」ということにして出発を強行したからです。コレラは船内で広がり、航海中に三十五人が死亡。上陸して、占領作戦を展開した時には一日に二百人以上の死者が出たのです。その結果、患者千七百人、死者千二百五十七人の犠牲者がでたのです。澎湖島の住民にも当然感染しましたが、その患者数などは軍の資料に欠落しているので判りません。
 日清戦争の主な記述は今回で最後としますが、ここで、何人の日本人兵隊が、死亡したのかお明らかにしましょう。参謀本部の記録。戦死 1132人。傷死 285人。 病死 1万1894人。 変死 177人。計 1万3488人。
 「朝鮮独立」の為といって始まった日本の最初の大きな戦争。日清戦争の在りのままの姿は如何でしたか?
次回からは、日本の朝鮮占領による朝鮮国内の動きを書きます。

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