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2008年12月 6日 (土)

日本の戦争の総点検 3

 日清戦争は朝鮮支配を狙う清と日本両国の明確な侵略戦争でした。
日清戦争の「宣戦の勅旨」は「案」として六つの案が在りました。そのどれもが「清国に対して戦を宣す」というような案でした。それが実際には「朝鮮の独立」になったのです。この「独立のための戦争だった」論は、靖国神社が映画「私達は忘れない」で宣伝していましたが、1942年に当時外務省の実力者だった元政務局長、中田敬義氏は外務省調査部が行った外交史の編纂という企画による「日清戦争の前後」で「日清戦争などは事実においては、見方次第で侵略になっているのだと思う。日清戦争の時朝鮮の独立を維持するといったが、最後には保護国、合併するということになった」と述べています。
 これを、「朝鮮の独立の為の戦争」とはいえませんね。清国の属国を日本の属国にするための戦争だったのです。清国に宣戦布告する九日前、1894年(明治27年)七月二十三日、日清戦争に備えて朝鮮に出兵していた日本軍は、突如として朝鮮王宮を攻撃し、王宮守備の朝鮮兵と戦闘を交え、日本軍戦死者一名を出しただけで朝鮮兵を一人残らず城外においだし、武器を全部奪い、城壁に軍旗を立て、王宮を完全に占領、国王を虜にし、日清戦争での日本への協力を強要したのです。その一番の要求は朝鮮国内の清国兵を、日本軍の手で「国外に駆逐する」ことを、国王の口から言わせることでした。こうして異常な状態の中、日本は、日清戦争は朝鮮国王の要請を受けて清国兵を朝鮮から駆逐する為の戦争という大義名分を得たのです。何の為の戦争かという戦争の理由付けが出来たのです。これは偶然起きたことではありません。朝鮮王宮攻撃は、反日的な政権打倒、親日政権樹立の目的に沿って事前に日本政府の承認を取り付けた上での行動だったのです。1884年6月9日の大島駐朝鮮公使は陸奥外相宛報告に「朝鮮との交渉で、回答いかんでわが兵を以って直ちに王宮を囲み・・」と述べています。これらの事実は公刊されている参謀本部編「日清戦史」では完全に削除されていますが、大本営参謀本部編纂「日清戦史草案」には詳細に書かれています。ここにも軍隊の残した資料のいい加減さが現れています。
 ここで王妃殺害にふれましょう。日清講和条約調印(1895年4月17日)から半年も経たない1895年10月8日、朝鮮王宮占領事件から一年二ヶ月半後、日本の三浦梧楼公使らが、朝鮮王宮を襲い、王妃、閔妃(みんぴ)を殺害しました。彼女は反日の中心人物を取り除くという日本軍の犠牲になったのです。当時公使館領事だった内田定槌は「其の死骸は王城邸内の井戸へ投じたが、其れでは直ぐ犯跡を発見されると気付いたので、又それを引き上げて王城ないの松原で石油をかけて焼いた。それでも未だきがかりなので今度は池の中に放り込んだが、仲仲沈まないので又其の翌日かに池から取り出して松原の中に埋めた」と述べています。朝鮮の独立とは全然反対の朝鮮を日本の思うとおりし様としていたことの現れです。事件直後内田は三浦公使に「大変な騒ぎになりましたね」というと三浦は「いや是で朝鮮はもう日本のものになった。もう安心だ」といいました。(日韓外交資料)
 三浦の言葉「日本のもの」にしようという意識が当時の日本の中の意識だったことのあらわれです。三浦はその後枢密顧問官になりました。

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