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2008年12月 6日 (土)

日本の戦争の総点検 8

 朝鮮国内で、朝鮮人による日本軍への抵抗運動は起きなかったのか。
朝鮮王宮の軍事占領はたちまち朝鮮全土に知れ渡り、怒りが広がりました。朝鮮は、日清戦争の主要な戦場になり、清国軍を駆逐した後も撤兵しません。1895年の王妃、閔妃殺害(10月)と、朝鮮政府の行った「断髪令」(11月)が朝鮮人の鬱積していた反日感情と怒りに火をつけました。東学農民革命に始まり、その後は朝鮮人が武器を手にして闘った反日義兵闘争に引き継がれました。この義兵闘争にも、日本軍は襲いかかります。その掃討作戦によって、日本軍の発表でも一万八千人近い義兵を殺害しました。朝鮮は日露戦争でも戦場にさせられました。また1905年、保護条約で韓国を「保護国」にしたことに対する怒りの爆発として、激しく本格的な闘いになりました。さらに1907年、ハーグ密使事件が起こります。この事件は韓国皇帝・高宗(こじよん)が、ハーグの万国平和会議に密使を送って保護条約の不法性を訴えさせようとした事件です。これに怒った当時韓国総監の伊藤博文が、皇帝・高宗を退位させ、軍隊を解散させたのです。1908年から韓国全土で義兵が立ち上がりました。日本は朝鮮軍の解散を命じたのですが、その解散式で朝鮮軍が蜂起して日本軍との戦闘になり、義兵と合流して激しい戦闘が全国で続きますが、日本はその朝鮮人の闘いを軍事力で鎮圧し、韓国「併合」となりました。
 「朝鮮駐箚(ちゅうさつ)軍司令部」編纂の「朝鮮暴徒討伐誌」によると「韓国軍を機関銃で猛烈に射撃せり。韓兵の戦死将校以下七十余命負傷将校以下百四名捕虜六百名に達す。我が軍の損害は戦死梶原大尉以下四名、負傷、将校以下二十一名」となっています。「討伐誌」には「1906年洪州の討伐では死屍八十二俘虜百四十五」などと「討伐状況」を細かく記述しています。この「討伐」は手段を選ばなかったことも記述されています。
 「事件発生初期に於いては、土人亦彼等暴徒に同情する傾向ありしを以って討伐隊は責を現地の村に帰して誅戮(ちゅうりく)を加へ若しくは全村を焼夷する等の処置を実行し忠清北道提川地方の如き極目(見渡す限り)殆ど焦土たるに至れり」。また1907年8月から1911年6月までで「義兵との衝突二千八百五十二回、この戦闘による我が軍の戦死者百三十六人、負傷者二百七十七人、義兵の死者一万七千七百七十九人、負傷者三千七百六人、捕虜二千百三十九人」と書かれています。これも「朝鮮独立」の為に日本が起こした戦争の一部です。

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