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2008年12月 6日 (土)

日本の戦争の総点検 11

 前回記したように実際「戦争となってから、ロシアの同盟国フランスは、イギリスにけん制されて何一つ具体的援助をロシアに贈ることが出来なかった。また、ロシアの黒海艦隊は、イギリスがトルコに迫ってダ―ダネルス海峡中立条約の厳守を要請した結果、遂に東洋に廻航することができなかった。バルチック艦隊はその遠征の全行程に於いて終始イギリスの基地を避けねばならなかった為に、著しい不便を忍ぶほかなかった。我が戦費の外債に依った部分の半分はロンドンで調達された。勝因の間接方面に於いては、日英同盟が大なる地位を占めたことも争う余地が無い」(前記『外交史』)。
 何故イギリスは日本に対してこれ程の援助をしたのか。決して「親日」の国ではありません。本音は日本の勝利ではなく、日本とロシアが牽制しあうことでした。その証拠もお示ししましょう。
 イギリス外務省パーチの覚書、1901年3月11日。「その遼東半島の日本による領有は、ロシアと日本の間になんらの了解も再び起こらぬ保障となるであろう。このことは、イギリスとヨーロッパにとって利益であらう。黄禍はロシアによって防遏(ぼうあつ)され、ロシアの危険は日本によって阻止されるであろう」。つまり、日英同盟によって、日本はロシアの南下政策を抑止し、反帝国主義運動を鎮圧する『極東の憲兵』として、イギリスを中心とする東アジアの帝国主義支配の枠組みを支える一員として位置づけられるようになったのです。
 さて、日露戦争の戦費はどのくらい掛かったと思いますか。総額十七億二千万円です。其の内外国債が八億円です。人員損失、戦死者は、十一万八千人です。旅順港への奇襲に始まり、遼陽会戦、旅順要塞攻略戦、奉天会戦、日本海海戦など、陸・海とも連戦連勝でした。連続する大勝の報は、国民をわきたたせました。「講和で何が取れるか」の夢をふくらませたのです。ところが、講和条約交渉が始まってみると、国民の期待していたものと大きく違ったのです。結局南樺太を領地にしただけでした。「臥薪嘗胆」を強いられ、重税と生活苦に耐えてきた国民が、「連戦連勝」の報をうけてきた講和の夢を破るものだったのです。そして、日比谷焼き討ち事件と騒動が全国に拡がります。1905年9月5日に、東京日比谷公園において講和反対国民大会が開かれたさい、政府が集会を禁止し、数万の群集と警察が衝突しました。群集は国民新聞社、内務大臣官邸、警察署、交番など二百六十余箇所を焼き討ち、破壊しました。警察と民衆の衝突は三十数回を超え、死者十七人、負傷者五百余人、、警察側にもほぼ同数の負傷者を数えました。検挙総数千七百余人、起訴された者三百十一人にのぼりました。そして政府は講和反対・政府批判を続ける新聞・雑誌を次々と発行停止にしました。事件は全国にひろがりました。
 講和反対と言う形でしめされた国民の怒りは十年間植え付けられてきた「三国干渉」に対する報復心と、連戦連勝報道のなかで描いてきた講和条約への夢が破れたことにありました。大軍拡と戦争の為の重税と物価の高騰による生活難などへの不満が講和条約の内容によって爆発した行動でした。戦争の実態を知らされずにきた国民のゆがんだ形での怒りの表明だったのです。戦争の実状は、国民には隠していましたが、もう、戦争を続けることの出来ない状態だったのです。

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